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著名人コメント
桐谷健太
(俳優)
人は変われるだろうか。
そして本当は自分の中にあるはずの光に気づけるだろうか。
その光の予感が、この映画には確かにありました。
永田琴
(映画監督『愚か者の身分』)
吉田監督の丁寧な演出に、ドキュメンタリーを見ているような気持ちで子どもたちの行方を見守りました。
一ノ瀬さんの無骨な存在感が、作品世界に確かなリアリティを与えていたと思います。
そして何より、この作品は答えを急がず、教育における正しさとは何かを観る者に問いかける静かな余白がありました。
私は、成長の過程において愛は必ず力になると信じたいです。
松本優作
(映画監督『This is I』『ぜんぶ、ボクのせい』)
私が学生の頃、海斗のような子が学校に何人かいた。
誰とも噛み合わず、何を考えているのかもわからない。
なぜ怒るのか、なぜ暴れるのか、その理由さえ見えていなかった。
この映画を観ながら、当時のあの子たちは今、どこで何をしているのだろうと、ずっと考えていた。
教師をしている友人が、「今は親からのクレームが怖くて、生徒を本気で叱れない」と話していたことを思い出す。
もちろん、子供を守るための意識や制度は必要だと思う。
けれどその一方で、大人が真正面から子供と向き合う機会まで失われているのかもしれない。
教育とは何なのか。大人は、子供とどう向き合うべきなのか。
この映画が突きつけているのは、学校や家庭だけの問題ではなく、今の社会全体の姿なのだと思う。
今の時代にこそ、多くの人に観てほしい作品。
染井為人
(小説家「正体」)
反省とはなんだろう。更生とはなんだろう。
そもそも、それは誰のためにするものだろう。
ぼくにはわからない。
けれど、反省した人が更生するのではなく、更生しようと行動し続ける人が、本当の意味での反省を手にできるのかもしれない。
『四月の余白』は、ぼくにそんなことを思わせた。
出口保行
(犯罪心理学者)
「過去は許されない」。この一言に象徴される重み。
法務省の心理職として刑務所や拘置所でおよそ一万人の犯罪者の心理分析に携わった経験から、この言葉の重みを一層痛感した。
「贖罪すれば許される」わけではなく、被害者感情をどのように受け止めるべきか。
きれいごとでは許されない犯罪被害をエピソードとしながら、その中で「更生」とは何かを考えなければならない。
まさに現実の苦悩を象徴する作品。
主人公を「いい人」で描くのが当たり前の展開のなかで、それを許さないシュールさが本作を一層現実味あふれるものとしているし、
「更生」の難しさを表現している。
本作の問題提起は具体的に表現されない「余白」部分。それは無限に広く深い。
名越康文
(精神科医)
人間は何か、本能のレベルで暴走し始めたのかもしれない。
そうであるならば、この稀な物語の中で繰り広げられる混乱は、ある意味極めて法則的なのかもしれない。
宮口幸治
(立命館大学教授・児童精神科医)
非行少年たちを更生へ導くためには、時に体罰すら辞さない――。今の時代では受け入れ難い価値観かもしれない。
ではその代わりに何ができるのか。もし明確な答えを持たないのであれば、安易に批判だけをするべきではない。
そんな問いが、全編を通して静かに投げかけられている。
大人も皆、かつては未熟な少年だった。
被害と加害が交錯する、単純な善悪では割り切れない世界。
その姿は、まるで「ケーキの切れない非行少年たち」の過去を見ているかのようだった。
葛藤を抱えながら生きる大人たち、そしてこれから教育の道を志す人たちに、ぜひ観てほしい作品である。
石井光太
(作家「傷つけ合う子どもたち 大人の知らない、加害と被害」)
本作を観て、これまで私が出会った殺人、詐欺、売春、自傷などを行った数多の子供の嘆きを思い出した。
社会や家庭のゆがんだ環境と、個の特性が合致しない子供たちの苦しみやもがきが「非行」と呼ばれる行動となって現れる。
大人は社会や家庭のゆがみを正さないまま、子供たちに「おまえが特性を変えて社会に合わせろ」と言う。
だが、個の特性など容易に変えられるものではない。
このような子供たちに必要なのは、正論をくり返す大人ではなく、
ゆがみにつまずいて転んだ時に、しっかりと向き合って何度も立ち上がらせてくれる伴走者だ。
何十回、何百回とそれをくり返すからこそ、少しずつ自分の足で歩けるようになっていく。
本作が描くのは、その歩みの大切さと難しさだ。
森直人
(映画評論家)
𠮷田恵輔という監督の凄さは、登場人物たちと一緒に“地獄に落ちてくれる”ことだと思っている。
俯瞰や客観という外部の目線ではなく、隣に立って肩を組んで、ワイルドサイドを共に歩いていく。
不良少年や元受刑者の社会復帰・更生を主題とする映画は数多いが、現場や課題の向き合い方において『四月の余白』は他と一線を画している。
理想や信念も大切だが、のっぴきならないリアルとして、何より自分が“生き抜いていく”ために笑顔を見せる。
そんな一ノ瀬ワタル演じる西健吾が、だんだん𠮷田監督その人に見えてきた。
町山智浩
(映画評論家)
他人の人生にも自分の人生にも無関心な子ども。
その岩のような心に、『四月の余白』の主人公は「種」を植える余白を探す。人を好きになる気持ちの「種」を。
種が芽生えなくても、あきらめずに何度も。咲きかけた自分の芽を枯らさぬために。
SYO
(物書き)
映画を観ることは、他者に想いを馳せること。ただし、安全地帯から。
この現実と無関係でいられる立場に安堵してしまっている自分がいた。
そのことがたまらなく哀しくて絶望して、暫く戻ってこられなかった。
知ってしまった我々は、明日も今まで通りの日常を生きるのだろうか。
それとも余白という名の隔たりを埋めるのか。いつか、変われるのか。
𠮷田恵輔監督が視覚化した、心の境界。安い感動などひと欠片もない。
かれらを理解しきれないし、救えもしない。だが断言する。傑作だと。
ISO
(ライター)
他者を理解する難しさも、誰かを思い通りに導く難しさも、私たちは知っている。
それなのに「教育」には、理想や高潔さを期待してしまう。
𠮷田恵輔監督は、そんな「教育とはかくあるべき」「こうすれば通じ合える」という空虚なドラマを拒絶する。
もちろん暴力による教育を肯定しているわけでも、被害者の傷跡を軽視しているわけでもない。
けれど人の痛みが分からない相手に、綺麗事だけで立ち向かうことはできるのか。
めぐる因果の中で正解のない難題に向き合う人々を、本当に責められるのだろうか。
容赦ない展開に胸が痛む。だが「それでも…」と願う𠮷田監督の情も確かに滲む、実に魅力的で、居心地の悪い映画だ。
ジャガモンド斉藤
(映画紹介人/お笑いコンビ)
どんな種類の「暴力」も目的は同じ。
結局は""相手を押さえつけたい""という欲望の表れであり、一度発動したら終わり。
人生は変わってしまう。仮に社会が許しても一生ついて回る。いつだって「暴力」はあなたの背後から襲いかかる。
Comment 著名人コメント
そして本当は自分の中にあるはずの光に気づけるだろうか。
その光の予感が、この映画には確かにありました。
一ノ瀬さんの無骨な存在感が、作品世界に確かなリアリティを与えていたと思います。
そして何より、この作品は答えを急がず、教育における正しさとは何かを観る者に問いかける静かな余白がありました。
私は、成長の過程において愛は必ず力になると信じたいです。
誰とも噛み合わず、何を考えているのかもわからない。
なぜ怒るのか、なぜ暴れるのか、その理由さえ見えていなかった。
この映画を観ながら、当時のあの子たちは今、どこで何をしているのだろうと、ずっと考えていた。
教師をしている友人が、「今は親からのクレームが怖くて、生徒を本気で叱れない」と話していたことを思い出す。
もちろん、子供を守るための意識や制度は必要だと思う。
けれどその一方で、大人が真正面から子供と向き合う機会まで失われているのかもしれない。
教育とは何なのか。大人は、子供とどう向き合うべきなのか。
この映画が突きつけているのは、学校や家庭だけの問題ではなく、今の社会全体の姿なのだと思う。
今の時代にこそ、多くの人に観てほしい作品。
そもそも、それは誰のためにするものだろう。
ぼくにはわからない。
けれど、反省した人が更生するのではなく、更生しようと行動し続ける人が、本当の意味での反省を手にできるのかもしれない。
『四月の余白』は、ぼくにそんなことを思わせた。
法務省の心理職として刑務所や拘置所でおよそ一万人の犯罪者の心理分析に携わった経験から、この言葉の重みを一層痛感した。
「贖罪すれば許される」わけではなく、被害者感情をどのように受け止めるべきか。
きれいごとでは許されない犯罪被害をエピソードとしながら、その中で「更生」とは何かを考えなければならない。
まさに現実の苦悩を象徴する作品。
主人公を「いい人」で描くのが当たり前の展開のなかで、それを許さないシュールさが本作を一層現実味あふれるものとしているし、
「更生」の難しさを表現している。
本作の問題提起は具体的に表現されない「余白」部分。それは無限に広く深い。
そうであるならば、この稀な物語の中で繰り広げられる混乱は、ある意味極めて法則的なのかもしれない。
ではその代わりに何ができるのか。もし明確な答えを持たないのであれば、安易に批判だけをするべきではない。
そんな問いが、全編を通して静かに投げかけられている。
大人も皆、かつては未熟な少年だった。
被害と加害が交錯する、単純な善悪では割り切れない世界。
その姿は、まるで「ケーキの切れない非行少年たち」の過去を見ているかのようだった。
葛藤を抱えながら生きる大人たち、そしてこれから教育の道を志す人たちに、ぜひ観てほしい作品である。
社会や家庭のゆがんだ環境と、個の特性が合致しない子供たちの苦しみやもがきが「非行」と呼ばれる行動となって現れる。
大人は社会や家庭のゆがみを正さないまま、子供たちに「おまえが特性を変えて社会に合わせろ」と言う。
だが、個の特性など容易に変えられるものではない。
このような子供たちに必要なのは、正論をくり返す大人ではなく、
ゆがみにつまずいて転んだ時に、しっかりと向き合って何度も立ち上がらせてくれる伴走者だ。
何十回、何百回とそれをくり返すからこそ、少しずつ自分の足で歩けるようになっていく。
本作が描くのは、その歩みの大切さと難しさだ。
俯瞰や客観という外部の目線ではなく、隣に立って肩を組んで、ワイルドサイドを共に歩いていく。
不良少年や元受刑者の社会復帰・更生を主題とする映画は数多いが、現場や課題の向き合い方において『四月の余白』は他と一線を画している。
理想や信念も大切だが、のっぴきならないリアルとして、何より自分が“生き抜いていく”ために笑顔を見せる。
そんな一ノ瀬ワタル演じる西健吾が、だんだん𠮷田監督その人に見えてきた。
その岩のような心に、『四月の余白』の主人公は「種」を植える余白を探す。人を好きになる気持ちの「種」を。
種が芽生えなくても、あきらめずに何度も。咲きかけた自分の芽を枯らさぬために。
この現実と無関係でいられる立場に安堵してしまっている自分がいた。
そのことがたまらなく哀しくて絶望して、暫く戻ってこられなかった。
知ってしまった我々は、明日も今まで通りの日常を生きるのだろうか。
それとも余白という名の隔たりを埋めるのか。いつか、変われるのか。
𠮷田恵輔監督が視覚化した、心の境界。安い感動などひと欠片もない。
かれらを理解しきれないし、救えもしない。だが断言する。傑作だと。
それなのに「教育」には、理想や高潔さを期待してしまう。
𠮷田恵輔監督は、そんな「教育とはかくあるべき」「こうすれば通じ合える」という空虚なドラマを拒絶する。
もちろん暴力による教育を肯定しているわけでも、被害者の傷跡を軽視しているわけでもない。
けれど人の痛みが分からない相手に、綺麗事だけで立ち向かうことはできるのか。
めぐる因果の中で正解のない難題に向き合う人々を、本当に責められるのだろうか。
容赦ない展開に胸が痛む。だが「それでも…」と願う𠮷田監督の情も確かに滲む、実に魅力的で、居心地の悪い映画だ。
結局は""相手を押さえつけたい""という欲望の表れであり、一度発動したら終わり。
人生は変わってしまう。仮に社会が許しても一生ついて回る。いつだって「暴力」はあなたの背後から襲いかかる。